釣魚台列島をめぐる論争
釣魚台列島は台湾の附属島嶼であり、我が国固有の領土である。15世紀初頭に中国人が発見、命名及び利用し、明代・清代ともに海防範囲に組み入れ、その版図に組み込んでいた。
1885年、日本は釣魚台列島が中国に属していることを知りながら、「無人島」であることを口実に国標の建設、編入を企てたが、清朝の警戒を懸念し、その延期を決定した。
1895年1月,日本は「甲午戦争」(日清戦争)での清朝の大敗に乗じ、「馬関条約」(下関条約)を締結する3ヶ月前、秘密裏に釣魚台列島をかすめ取ることを閣議決定したが、対外的に公表を行わなかった。
釣魚台列島をめぐる論争
第二次世界大戦後、釣魚台列島は琉球と共に米国の管轄下になった。
「国連アジア極東経済委員会」(ECAFE)が黄海および東シナ海海域で6週間にわたる地質調査を実施し、その際アジア各国(中華民国を含む)からも科学者を派遣した。その結果、釣魚台列島付近の東シナ海大陸棚には膨大な石油埋蔵の可能性があると指摘された。
1972年、米国は該当列島の施政権を、琉球と共に日本へ勝手に返還したことで我が国政府と中国大陸当局の激しい抗議を誘発、現在に至る論争を巻き起こした。
釣魚台列島の地理と地質
釣魚台列島は行政上台湾省宜蘭県頭城鎮大渓里に属しており、台湾の東北部、基隆の南102カイリに位置する。釣魚嶼、黄尾嶼、赤尾嶼、南小島、北小島および三つの岩礁からなり、総面積は6.5平方キロメートルである。その中でも釣魚嶼は最も大きく、面積は4.5平方キロメートルを占める。
釣魚台列島の地理と地質
釣魚台列島は東シナ海の大陸棚辺縁部に位置し、周囲の水深は200メートル未満で、台湾北東部の三つの小さな島(花瓶嶼、棉花嶼、彭佳嶼)と連なり、それらと同様の地質構造をもつ。しかし、沖縄県の県庁所在地である那覇までは230カイリの距離が有り、水深2,000メートルにも達する沖縄トラフによって隔てられている。
国際法と国際政治
釣魚台列島をめぐる論争は「占有」と「時効」を主軸に国際法上の論争へと及んだ。しかし、該当列島は1895年以前は清朝の領土であったため、決して「無主地」ではない。また、当時日本は対外的にも公表しておらず、日本の閣議決定も我が国に対して元より法的効力はない。
釣魚台列島は元来台湾に附属する島であり、それが日本に割譲された。釣魚台列島は馬関条約(下関条約)第二条の「台湾及びその附属諸島嶼」のうちに当然含まれると言える。そのため、台湾の日本統治時代の間、釣魚台列島は日本の領土であり、その日本人による利用についても誰からの抗議もなく、当然「時効」の権原による領有権の取得もない。1972年に米国によって釣魚台列島の施政権が日本に譲渡されたが、既に表明されている通り、これは各国による領土の主張に何の影響を与えるものではない。
我が国の立場と政策
釣魚台列島は中華民国の領土であり、これはわが政府の一貫した立場だ。釣魚台列島を巡って引き起こされる国際紛争について、中華民国政府は平和的解決を主張し、一方的な行為で情勢の緊張を高めるのを避け、共同で地域の平和と安定を維持することを求めている。